私の高校生の頃を知る
地元の先輩が
午前と夕方の2回に分けて
お電話で
私の今後について真剣に考えて
アドバイスをくださった今日。
しかも1回90分ずつもです。
アドバイスは
「長いスパンで見たら
こうする方が安全じゃない?」と
今と未来を見据えて
私の気持ちも考慮しての
心がヌクヌクするアドバイスです。
(その先輩もこちらの公開日記ブログはご存知ありませんが)貴重のお時間を割いてくださりありがとうございました!!!
付け加えるなら
先輩のアドバイスは決して押し付けがましくもない。
そう感じる理由は
先輩がご自身の意見をおっしゃる時は
「あくまでも私の意見だからね!」と
ご配慮くださり
改善するべきところは冷静に
お伝え下さるから。
会話の中に
「それっておかしい!」とか
「みすずちゃん、それって非常識だよ!」とか
自分の物差しで測り
相手を『裁く!』みたいな
まるで神様か閻魔大王かのような
発言も全くない。
だからその会話は
とても清々しく、私の好きな空間になる。
それ
(基本、自分の心の声を聴くのに必死なのと、相手も自分も傷つけないためにも、仕事と類友のその色んな話以外の
人の話は聞きませんが…)
こちらも素直に
聴く耳を持てるのだと改めて感じました。
今日まで生きてきて
そういう人に滅多に出会えなかったけれど
今
自分の周りにいる人たちは
そういう人たちばかりです。
ルイ友と呼ぶのでしょうか?
その
ルイ友は3年に一度しか会わない人もいる。
こちらが連絡するといつでも会って下さる人もいる。
ブラジルに住む、スペイン人とイタリア人とポルトガル人の血が混ざり合った人もいる。
私は友達はほとんどいない。
それは祖母も母も同じだった。
だから類友の存在が心強くて、寂しくない。
小学生の頃から女子の軍団に入るのも
その話がつまらなく思えて
自ら一人でいた気がします。
みんな優しくて、気のいい人たちだったけれど
ただ、なんとなく、面白くなかった。
もちろん、一時的に話の合う友達はいたけれど٩( ᐛ )و
中学生の頃は塾のお友達の記憶で埋まっていて…
中学で付き合いは終了している感じ。
高校生の頃は全てのクラスメートが優しかった。
それでも、大人になってから
ふとしたことで、その子の本心が見えることもあって
最後にならないと
どんな関係であるのかわからない同じ類っぽい人もある。
だからこそ
今の私が気楽に連絡のできる
貴重な類友に感謝。
自分たちにとっての類友は
同じ作家さんのyoutubeを見ていたり
自分以外のことを『どこの範囲まで』考えられるのか?とか
『テイカー』なのか、それとも私の母のような『ギバー』なのか
とか
コロナのお注射の件とかの範囲でも
その分類ってされてるっぽいです。
他には
自分の頭で
考えるのか?
♪テレビから流れてくる冴えないニュース(誰かの歌の歌詞だった気がする)を
そのまま鵜呑みにしているのか?
人を見た目だけで判断しているのか?
『愛』を持って
その人の全てを受け入れて
善悪なしに
付き合っているのかとかでも
分類されているっぽい。
その他にも
本音と建前のような嘘や、本当の嘘をつくことなく
相手の幸せを共に喜びあえる
どうしなのか
とか。
そんなお互いの器量や
自己肯定感の幅や
波動=波長の幅?
みたいなものたちが
類友を決めるのかもしれません。
私にも、その類友たちにもきっと
類友を決める理由は正確に説明できないことだと思います。
類友も
その場その場で変わったり
類友だけと接点を持っていたくても
私の最愛の妹にすれば、付き合いたくもない人ともママ友だから付き合わざるおえないとか
色々あるのが
『魂の修行の場』である
生きる道?
と『心の声』が聴こえてきます。
私は、そんな修行は
できればしたくないです٩( ᐛ )و
ま、する環境にも、今はないけれど…
勝手に降ってくる修行みたいなものもあるのが人生。
嬉しい、楽しいことばかりじゃないからこそ
貴重な命の時間たちを
一緒に時間を過ごす人は
気軽で、気楽で、楽しくって
美味しいのがいいw
そして
信頼関係を築ける人たちがいい。
一番大切なのはその人の根底に『愛』があることかな。。。
だからそういうご縁の続く
そういうご縁が生まれやすい未来に
自分の思想や言霊を使って
少しでも楽しい方へ向かって
これからも生きていきたいです。
その楽しいことをするための
努力や忍耐は持っておくつもり٩( ᐛ )و
また、意味のわからない方向に
思考が巡りました。
私、思考が巡る病気かな??d( ̄  ̄)
ま、病気でもいいけれど。
おやすみなさい٩( ᐛ )و