「この本、読んでてすごく楽しい」
「この楽器、弾いててすごく楽しい」
「この勉強、どんどん理解できるからすごく楽しい」
と心の声が言うことなら
続くことがあります。
しかし
取り組もうとすることに対して
例えば、その本を読んだ先の先で資格が取れて、
資格が取れたらお給料がアップしますよ!
など目にみえる形での報酬が
支払われない場合などでは、
「好きでも楽しくもないことを継続する」のは
難しいなと改めて想いました。
特に、一人で取り組んでいることなら難しさは倍増です。
たとえば、受験勉強なら塾の先生や親族の励ましがあったり
一人ではないので「好きな科目」じゃなくても
頑張れそうです。
また、お仕事なら「好きなこと」でなくても
家族のため!と
自分の為だけじゃないから
頑張れそうです。
はたまた
一番わかりやすいお給料などの報酬以外の
「別の得られる何か」があり「自分が得をする!」とかなら
「好きでもないことの継続」も
頑張れるのかもしれませんし
ご本人も「私は頑張っている」なんて
全く感じていない可能性もあります。
そんなことを書いていたら
「好き」や「楽しい」という気持ち(感情)は大切だなと
改めて感じますが
それは「感情」によって動く特徴のある
生き物特有のものかもしれません。
そうだとすると、「感情によって動く生き物は、好きや嫌いといった感情を司る脳の機能が停止すれば、生きる為に必要不可欠なこと以外は何も取り組まなくなる=やる気がなくなる」ということでしょうか。
もしそうなら、だからこそ「少年よ、大志を抱け」と
クラーク博士が
残されたのかもしれません。
きっと人が大志を抱くのは、「志」の背景を支える「その何か」のものやことが
好きだからではないと
私も想います。
他に「好きの感情」がなくても
人が取り組めることってなんなのだろう?٩( ᐛ )وと
心の声が聴こえてきました。
みなさんは何が思いつきますか?
母親が子供に抱く「母性本能」は好きという
感情を超えている?とか
色々考えてしまいます。
本能なので感情とは切り離されていて当然なのでしょうか?
こんなことを書きたかったのは
昨日のブログを書いた時点の「空き時間に本の続きを読む予定」の
通りには読書をできなかったので
「自分で決めたことができなかった理由」を
見つけたかったからです。
結論は、今のところ「好き」と思える本ではないので
いつものように「好みの本」を読む時のような
「積極的な態度になれなかった」という単純なものでした。
まぁ、頂いた本の読書は強制されたものではないので
それでOKです٩( ᐛ )و
とはいえ「知識を得る喜び」を
感じることは好きなので
「続きを読んで、知らなかった世界を知ってみたい」
という心の声が聴こえます。
また、頂いたその本は3巻ものなので、
1巻のしかも前半で
「これは読書継続しない本」と
決めつける判断も
今はできません٩( ᐛ )و
今、するべきことを
終えてから、ゆっくりと読書時間へ移ります。
するべきことのスローな前進に反省な毎日ですが
それでも少しづづでも
前進をしている自分を大切に
してあげたい⭐︎
期限のありそうなことにも
焦らず、未来時間の創造を
してあげたい⭐︎
未来から見た今日も
未来にも過去にも今この瞬間にも
繋がっているでしょう!???
とにかく、人が行動するときには
それが趣味など
好きなことでないのなら
自ら「積極的」になるしかない!
という感じで「自分理解」をして
分析を終わります。
「積極的」と「押し付け」は違うので
注意をしようと想います⭐︎